大正期の彫刻界は、1907年(明治七年)十月に創設された、文部省が主催する
文部省美術展覧会(文展)を中心にして大きく発展していきました。
同展は美術界の中で絶大な権威をもっていく一方、入場者数も第一回の四万三千人から、
第六回展では十六万人と、回を追うごとにうなぎ上り。
今では考えられませんが、一般大衆の娯楽として「美術」イベントの性格も強かったそうです。
大正八年からは、帝国美術院が主催する帝国美術院展覧会(帝展)となり、戦後は現在の日展となります。
運営が国家の手を離れるまでの時期、特に戦前までの展覧会を総称して一般的に「官展」と呼ばれています。
その、官展にも出品していた僕の祖父の木彫作品です。

大正十四年、第七回帝国美術院展覧会出品 と書いてあります。
こちらは、
大正十五年、東京府美術館で行われた聖徳太子奉賛美術展覧会への出品作です。

「大正期の彫刻界」の事を
彫刻家である祖父、田島亀彦の事を交えながらお話していきます。
祖父の事を追うことで大正期の彫刻家がどんなふうだったのかわかると思います。
祖父、彫刻家 田島亀彦。三十代頃。

僕の祖父、田島亀彦は明治二十二年(1889)六月二十八日、父慶三郎、母まきの三男として生まれました。
父は二代目の仏師でした。
ですから、僕は五代目の彫刻家になるわけです。よくもまぁ続いたものです。
亀彦が小学校に上がると、父は亀彦に対し学校が終わったら自分の仕事場に来るように命じたそうです。
亀彦は、仏像を刻む父のそばに座らされた。
父は、幼い息子に仏師の仕事場の空気になじませようとしたのです。
ノミを動かす父の手を、削り落とす木屑を、だんだんと形が出来ていく像を、
そういったものを見つめる忍耐を、亀彦は父に強いられました。
小学生にとっては退屈な日々です。
小学三年に上がったある日、仕事場の木っ端の程よいモノを拾って、亀彦は下駄のミニチュアを作りました。
親指大の五種類の下駄だったそうです。鼻緒は紙こよりです。
父の仕事場の向かい側にあった履き物屋の飾り窓に並んだ下駄を、亀彦は見ていて真似たのです。
亀彦は、得意になってその小さな下駄を着物の縫い上げの中に忍ばせて登校し、教室の机の中に入れていた。
それを先生に見つかってしまい、亀彦は職員室に呼ばれて叱られると思った。
ずっと級長に選ばれていた亀彦少年は、ただただ恥じ入るばかり。
「自分が作りました。学校に持ってきたのは悪うございました。」
この子は学用品以外の物を持ってきたのだから謝っているのだろうが、それにしても良く出来ている!
と、先生は感心してしまった。これが三年坊主の手際か!と驚いてしまったのです。
「ウム、ようでけとる!田島、お前は天才ぞ!」
と、先生は褒めてくれました。
そんな事件があったりして、亀彦十二歳の春。
この年から、父は亀彦にノミを持たせた。仏師への、ないしは彫刻家への本格的なスタートです。
仕事場ではすでに長兄が父の手伝いをしていた。兄は新入りの弟の面倒を良く見てくれました。
この兄、軍記は後に塗り師となり、熊本で仏壇製作に従事していたが、終戦直後亡くなった。
次兄は幼くして世を去っている。
父、慶三郎は、日奈久温泉神社の御神体の作者と伝えられています。
廃仏毀釈のドサクサで、作者不明だったのですが、亀彦が証言しています。
「私がまだ小学校就学、一、二年前かと思います。当時父の慶三郎は湯の神の御神像をお刻み申し上げるために
神社の境内に職場を設け、精神潔斎して数十日間奉仕し、勿論帰宅致しませんでした。
私は父恋しさに時たま現場に行ったものでした。」
さて、亀彦をひとかどの仏師に仕立てようとする父慶三郎は、十二歳の少年に対しても厳しかった。
兄よりも、むしろ亀彦に期待するところがあったようで、父の熱の入れようもひとつ違っていた。
亀彦は早速、魚釣りもトンボ採りも禁じられた。遊びたい盛りの少年にとってこれは過酷な試練です。
温泉神社の神像を刻んだ時、精神潔斎して小屋にこもり、聖像制作に打ち込んだほどの父であったから、
子ども達にも自分の造像の態度を押し付けたそうです。
田島家は、信仰の対象となる像を造る職能の家柄であり、霊界と衆生との、外国流でいえば司祭の役目を、
神仏の制作で果たしていたわけです。
慶三郎は、そういう田島家の位置とプライドとを、造像の技術とともに子どもたちに教えようとしたのです。
その父も、亀彦が高等学校を卒業してまもなく亡くなった。
五十六歳でした。亀彦は頼るべく師匠を失いました。
十七歳の時、亀彦は故郷をあとに京都へ旅立った。京都ではまず、小仏師並川新次郎についた。
小仏師とは、小さい仏像専門の仏師のことです。
並川の所で亀彦は、小像を作るための繊細な技術を覚えた。
しかし亀彦は、手先仕事に陥りがちな小像彫刻の分野に甘んじたくなかった。
田島亀彦はかつて、等身大以上でなければ像の迫力が出ない、と語ったことがあるそうです。
平凡な言葉のようであるが、田島亀彦がこれまで心血を注いで造像した多くの作品の多くが
大作であることをを思えば、その言葉には重みがあります。
亀彦は、一年で並川門を離れ、同じ京都の大仏師田村正運についた。
正運は京都の仏像彫刻界で高名であった。
亀彦はこの師匠のもとで三年間みっちりと技を磨いた。
木彫の伝統技術の習得であった。
亀彦はもう少し正運のもとに居たかったのだが、満二十歳となれば徴兵検査。
検査の結果甲種合格となり、熊本第二十三連隊に入営した。軍務に励むかたわら、
日曜日の外出ごとに仏壇製作の兄軍記の家に立ち寄った。
軍都熊本の休日は、兵士たちでにぎわっていた。
帰営時間ギリギリまで盛り場を徘徊する兵士たちと、亀彦は対照的であった。
兄の家に休日外出のたびに立ち寄っていた亀彦は、そこで町内のために恵比寿像を彫っていたのです。
週一回の作業では、なかなか捗らない。しかし根気よく彫り続けた。
完成後、亀彦はそれを町内に寄贈している。
この彫像は、軍隊生活から、仏師田島亀彦が自己を取り戻す作業であったはずですが、
「恵比寿像寄贈の話、軍上層部にきこえ田島上等兵の善行嘉すべし!」
と、亀彦は入隊後2年で帰休兵として兵役を離れる恩典を受ける事になったのです。
兵役を済ませた亀彦は、いよいよ彫刻への情熱を燃やし、
明治四十五年、東京美術学校(現芸大)木彫部を受験した。木彫作品を難なく作り合格。
しかも教授会は一年と二年の過程を飛ばして三年に編入することを認めた。
一年、二年のカリキュラムで亀彦に教えることは何もないと言うのである。
十二歳から彫刻をはじめ、ずっと彫刻にたずさわってきた実力が、
難関ウエノを突破させ、オマケに二段階を越えさせたのです。

制作中の菊池武時公像と作業スモッグ姿の祖父。成城のアトリエにて。
腰掛けていた像を気に入らなかったのか、あぐらに作り直したそうです。

この、菊池武時公像は祖父の代表作です。ブロンズになる前の石膏像と記念撮影。
右端が祖父亀彦。左で椅子に腰掛けている人が、当時の内務大臣、安達謙蔵です。
この作品は、熊本市島崎の三賢堂に安置されています。
晩年の祖父。仏師の流れを汲む自身は三代目の彫刻家でした。

昭和五十七年、九十三歳で亡くなっています。僕が九歳の時でした。
過去の『シド工日記』で祖父の事を書いている記事はコチラです↓ぜひお読みください。
田島家の彫刻家三代噺祖父が買った千代鶴是秀 亀彦は美術学校で、それまで習得したものの上に、近代彫刻の技法思想とを加えた。
仏師から、彫刻家への田島亀彦の展開です。
大正五年、美校を卒業。
そのあと六歳上の
朝倉文夫が主宰する、朝倉彫塑塾に入りました。
ですから僕は、朝倉文夫の「ひ孫弟子」だと言うわけですですが、これを言うと大抵キョトンとされるか、
哀れみを持った目で見られるかのどちらかですので、言わないようにしています。
ここで、当時の彫刻界を少し振り返ってみます。
明治四十一年、ロダンの感化を受けて帰国した荻原守衛が彫塑界に点じた近代彫刻の灯は、
彼が作品を発表した官展では、その価値を認められず、かえって在野団体の日本美術院のほか
二科会、太平洋画会の新進彫刻家に強い影響を与えました。
荻原守衛に続いて帰国した高村光太郎や、美術院の中原悌二郎、石井鶴三、太平洋画会の堀進二、
二科会の藤川勇造らがその系列にあった。
これらの在野系の作家たちに対抗する存在と目されたのが、
朝倉文夫ほか、北村西望、建畠大夢ら写実主義をよりどころとする作家たちで、
そういう傾向は官展の主流として、大正~昭和前期の彫塑界を貫いています。
とくに建畠、北村、朝倉の三人は大正末に帝国美術院会員になり、のちにそろって東京美術学校教授となった。
彼らの官展における存在は彫刻界の大きな勢力となりました。
官展と在野対抗の美術界のなかで、田島亀彦の選択が朝倉文夫という官展派一方の大将であったことは
それまでの歩み、とくに師弟関係からして当然の成り行きと言わねばならないでしょう。
朝倉彫塑塾展で。一門の記念撮影。前列向かって右より四番目が朝倉文夫。

前列、最右端が祖父亀彦。一番偉そうにふんぞり返っていて、孫の僕はニヤけてしまいます。
朝倉彫塑塾一門は余興が好きだったらしく、集まっては芝居などをしていたようです。
祖父の遺品の中に沢山余興の写真がでてきます。

全員、彫刻家なので、小道具も凝っていますね。

左端が祖父亀彦。達磨でしょうか?

もちろん、朝倉文夫も芸を披露したそうです。左端が朝倉文夫。

なにを唱っているのでしょう?
その後、大正八年には帝国美術院の官制ができ、第一回帝展の審査員に朝倉文夫、北村西望、山崎朝雲、
建畠大夢、北村四海、米原雲海が上げられている。
朝倉塾における田島亀彦は、その実力と穏和な人柄により人望を集め、塾幹部として後進の指導にあたった。
朝倉の亀彦に対する信頼も厚く、亀彦は師によく仕えた。
のちに同人たちが朝倉に背を向けることになるが、亀彦は最後まで塾を離れなかった。
熊本に帰ってからも、その死(昭和三十九年)まで礼を欠かさなかったそうです。
田島亀彦は大正十一年、帝展に「心頭滅却」と題する木彫作品を出品して初入選している。
この作品は、兵火の中、示寂する戦国の禅僧、甲斐恵林寺の快川和尚。
これより先、婦人像の「緑光」を東京上野で開かれた平和博覧会(大正十一年)に出品、入賞している。
その後、東台彫塑会展(大正十二年)の婦人像「鏡」、帝展の「感謝」、東台展の「霊の泉」、帝展の「風薫る」
聖徳太子奉賛展の裸婦「静鏡」と続き、その後も帝展や朝倉塾展などに労作、評判作などを発表しています。
その間の作品としては、第六回朝倉塾展の推古式観音像(木彫)が細川家御用となったり、東台展の「霊の泉」が
外国人に買い取られたりしている。また、日露戦記「肉弾」の著者、「桜井忠温像」(聖徳太子奉賛展、無鑑査)
を制作したり、「安達内相像」を郷土展に出品して好評を博していたりする。
このなかで、当時の内務大臣、安達謙蔵の像を作ったことから、田島亀彦は安達から認められるようになる。
「安達内相像」。右から内務大臣の安達謙蔵。そのとなり祖父亀彦。

安達はその作品を愛好し同郷の彫刻家田島亀彦を後援することになります。
すなわち横浜八聖殿の「釈迦像」を、安達は亀彦に彫らせたのです。↓

そして、そのできばえが賞賛されて、前出の「菊池武時公像」を作らせたのです。
ブロンズになった菊池武時公像
大正期の彫刻界の一般的なイメージでは、
荻原守衛や高村光太郎が、当時の現代美術であったロダンを紹介して時代の最先端。
一方、朝倉文夫は悪い意味でのアカデミズムにしがみついている。表面だけの形を作ってロダンのような
内から盛り上がるような作品ではない。
と、いうような非常に単純で間違った線引きがあります。
祖父の遺品の中に、こんなポストカードがありました。


朝倉文夫作、猫の彫刻のポストカードです。文展出品当時の貴重なものです。
僕は学生時代、東京谷中の朝倉彫塑館でこの実物を見たとき、なんて生き生きした彫刻だろうと息をのみました。
これは確実にロダンを勉強したモデリングだと思いました。
上野の西洋美術館で見たロダンに粘土付けが似ている!と単純に思ったからですが…。
あとから知ったのですが、朝倉文夫はロダンの作品を実際に手元においていたそうです。
こんなことからも、他の人よりもよほどロダンを勉強したんじゃないかと思います。
朝倉文夫は、海外留学しないで日本でずっと勉強した作家です。
確かに、光太郎や守衛はパリでロダンを勉強したかもしれませんけれど、
明治の四十年代はヨーロッパの新しい美術の情報というのはどんどんはいってきている状態ですから、
朝倉文夫のような感性やテクニックや観察力で十分に当時の現代美術というものを
吸収するだけのことはできたと思います。現にそれを表現として活かしている作品ばかりです。
「海外に行ったからってなんだ!」
と、貧乏(公的には飛行機がダメと言っています)が理由で、ひがんでいる僕が唱えている説だからといって
それほど外れている説では無いはずです。
現在でも、「前時代的な古臭い置き物彫刻」より、「生命感あふれる造形性」だ!という風潮は
当たり前のように皆の意識の底でうごめいており、
官展系の歴史性と芸術性を軽視してしまうということになっているようです。
朝倉文夫は、ほぼ生涯に渡って、色々なときに猫を制作しています。
一番早い時期の作品は、「吊るされた猫」というのがありますが
亡くなる年に猫百態展というのを企画していて、(東京オリンピック開催年ということもあり)
百点の猫を作って大きな展覧会をやりたかったそうですが、その年の早い時期に朝倉は亡くなってしまいました。
猫百態展は実現はしなくて、実際今は五十点程の作品しか残っていません。

この「吊るされた猫」に、こんな話があります。
当時、官展を見ては
「彫刻のありがたみは図題ではない。彫刻は彫刻でよいのだ。」
「技巧の方から言えば、堅実性が足らない。ここが第一に作の深みを浅くしている。面が混乱している。
ここが又深みを失わせている。線が連続していない。ここが気分の集中を妨げている。」
と、辛口批評をしていた高村光太郎がめずらしく「吊るされた猫」を褒めたそうです。
光太郎は、なにしろ筆が立ちますし、当時の美術批評家の中でも、
あれだけ美術について本質的なことが書ける人は、そういなかったと思います。
「官展の作家というのはやたら図体の大きいものばっかり作って威張っているけれども、
彫刻というのは指一本だっていいのだ。
そうした中で、猫一匹をこうやって出すっていうのは、かえっていいんだ。」
と、いうように褒めています。
ただその後、返す刀で
「それにしても腕のつくりがなっていない。」
と、光太郎は言いました。
そして、その後。
朝倉文夫としては珍しい、「腕」という作品を作っています。これはどこの展覧会にも出品してないそうです。
あの超絶技巧の朝倉文夫が、光太郎に言われて「腕」の勉強をしたわけです。
こういうことからも、もの凄い勉強家であることがわかります。
高村光太郎の批評というのは、
「コンポジション」、「ムーヴメント」、「アクサン」といった当時の人々には
さっぱり分からないであろう横文字を時には原語のままに使用し、ひたすら彫刻とは何かと問いかけていました。
それまでの彫刻批評が「意匠」、「刀法」、「古実」、「用途」といった
画論を転用した言葉で語られてきたことを思えば、
光太郎の批評は当時の人々に、強烈に響いたはずです。
光太郎の使った用語は、現在も彫刻を語るための基本的な言葉になっています。
そして現在まで続く、オーソドックスな彫刻や工芸的な作品、生人形等を一段低く見る日本の風潮は
光太郎からはじまったと思います。
ちょっと光太郎批判みたいになっていますが、僕は光太郎の大ファンです。
光太郎について書いた過去の記事です。↓
大好き高村光太郎光太郎好きが高じて光太郎の文体を真似て書いた僕の芸術論です。↓
ちくわの美と造型 高村光太郎の「手」という作品があります。

この「手」を朝倉文夫は、購入しています。
高村光太郎は朝倉文夫と年齢は一緒です。明治十六年生まれ。
光太郎という人は高村光雲の息子で、そうした環境の中で生まれ育って、
当時は飛び級というのがありますから非常に若くして東京美術学校に入って、しかも飛び級で卒業する。
そしてヨーロッパにも行く。そういう環境の人です。
一方、朝倉文夫は田舎で、中学校を落第して、東京に来ても美術学校にすぐには入れなくて。
同い年なのに、朝倉が美術学校に入った年に高村光太郎はもう卒業しているわけです。
そうした対照的な二人の、朝倉と光太郎の共通の友人に
小説家の田村松魚という人がいて、両方の家に出入りしてたそうです。
その松魚が、
「光太郎さんが二度目の留学をしたくて、小品頒布会を開くらしいよ。」
と、朝倉に伝える。
そして、前から腕が良くないとか色々言われたこともあったのかどうか分かりませんが、
そう言う事なら、光太郎さんにお願いをして手を一つ作ってくれと、松魚を通じて注文をした。
(朝倉文夫は、光太郎さんとは言わなかったそうです。光雲先生の坊ちゃんって言ったそうです。)
「ただし、僕の名前を出しちゃダメだよ、僕の名前を出したらあの男はきっと作らないから。」
と、言って注文して作らせたそうです。
この「手」について、朝倉文夫は晩年、よく弟子に話をしていました。
「光雲先生の息子さんは、本当にロダンを勉強している。
こんな立派な作品はない。君たちもこれを見て勉強しなさい。」
と、言って、これをいつも書斎の棚において眺めていたそうです。
ちなみに、高村光太郎は最後までこの件は知らなかったようです。
こういう話でも、朝倉文夫がロダンというものを軽蔑しているどころか、非常に評価をしていた。
そして、この「手」については高村光太郎の仕事として非常に評価をしていたということがわかります。
画家と違い、彫刻家には画商がつきにくいです。
そして、彫刻は絵画ほどには美術市場で売れるものではありません。
だから彫刻家は、「作品」のみを制作していたのでは生活が成り立たない。
最近でこそ、彫刻を扱う画商がいくらかあるけれど、それでも絵画に比べるとお話にならないほど
少ないのです。
今も昔も彫刻では生活が成り立たないのは同じです。
明治大正昭和と活躍した木彫の大家、平櫛田中は
大正五年にこう言っています。
「予は故あって露骨に言えば、パンのために、ある人の後援を受けて、
床の間の置物という狭い課題で木彫を試みている。」
『置物』という批評は、とくに官展開設以降の彫刻家にとって侮辱的な意味合いをもっており、
一部現在でもそれは続いています。
この『置物』を作るのは、『パン』のために仕方なくやっているのですよ!という言い訳なんです。
こんな言い訳をしなければならないほど『置物』と言われるのは怖かったのでしょう。
この件は僕も良くわかります。
「置物や人形だって良いのがあるじゃないか、置物に失礼だろ。」
などと言っていても、いざ自分が「人形師」やら「甘っちょろいのばかり作りやがって」などといわれると
ちょっと違和感を感じてしまいます。
パンのためだと言い訳したくなるのです。
かく言う僕も、「彫刻」の方が芸として上であると思ってしまっているのです。
ハッと気づくとこのような事を考えているので、いつも反省します。
こういう幼い了見から早く自由になれるようにもっと修行しなければいけません。
大正期の彫刻家は、しばしば小品頒布会を開き、収入を得ていたようです。
高村光太郎の有名な小品木彫の『鯰』や『柘榴』、先の『手』は頒布会の売り彫刻でした。
祖父もこのような頒布会、後援会を組織して頑張っていたようです。
大正15年頃発行された、『木彫家田島亀彦略歴並びに亀彦会規約』という当時のパンフレットです。
亀彦会というのは、祖父のファン達が集まって小品彫刻を定期的に買ってくれるという
誠に徳が高い方達の会です。
芸術家にこのような後援会がつくのは当時としては珍しい事では無かったようです。

僕も『享央己会』というのをこしらえようかと、妻に相談したら
募ってもせいぜい1人か2人、あんたには猫の子だってよりつかない
と、僕も薄々考えていたいたことをズバリ言われて止めました。

祖父の略歴が書かれています。
『田島亀彦は熊本の人の仏師の家に生まれ、幼くして彫刻の技に秀で
大正5年東京美術学校彫刻科木彫部を卒業し、一旦故郷に帰り家業を助け、大正十年上京す
以後技を磨き大いに熟す。代表的作品は左の如し』
と書いてあります。写真は大正十一年、帝展初入選の木彫『心頭滅却』です。
次項。

右項は大正十四年、帝展入選作の木彫『風薫る』です。
左項は小品木彫。このような物を作って買ってもらっていたのでしょう。
他にも、こんな木彫を頒布していたそうです。

右上は、花咲爺さんでしょうか。おもしろいです。
右下の幼少の聖徳太子の写真の裏に、十二円と値段が書いてありました。
最後は亀彦会の規約が載っています。

一、亀彦会は田島亀彦の彫刻制作上の後援をすることを目的とする。
二、亀彦会は彫刻美術に趣味ある者を会員として組織する。
三、会員は田島亀彦の作品を購買するために本会設立の日より起算して二年間毎月出資を行う事とします。
ただし、数ヶ月分又は全額をまとめて出資を行うことは妨げず。設立後加入する会員は加入の月より
前項期間の終了するまで出資を行うものとす。毎月の出資金額は一口金五円とし二口以上出資を行うこと。
四、会員の出金は毎月本会より田島亀彦に給付し田島亀彦は出資金額に相当する作品を会員に給付するを
原則とし大略左の方法により作品を頒布するものとす。作品十数点以上に達したる時
作品発表会を開催し会員はこのうち希望の作品を申し受けるものとす。
一個の作品に対し二名以上の希望者ある時は抽選をもってこれを定む。
作品の価格出資金額を超過する場合は超過分は作品売渡と同時に支払うものとす。
五、会員は田島亀彦制作上の都合を害せさる限り任意の作品を注文することを得る。
六、会員脱退の場合は出資金額の返還を請求する事を得ずその金額をもって作品の購買にあてるものとす。
七、田島亀彦に縁故ある者を本会の賛助員とし特に本会の指導援助を請けるものとす。
八、本会の事務所は市外瀧野川町中里二二一田島亀彦方にて取り扱うものとす。
九、本会に幹事若干名を置き会務を処弁せしむ。
十、本会は大正十五年七月一日をもって設立したるものとす。
と、書いてあります。
毎月の出資金額が一口五円。今の価値でいくら位なのでしょうか。
当時の物の値段です。
資生堂パーラーのアイスクリーム 二十銭 (大正十年) 銀座木村屋のアンパン 二銭 (大正六年)
太田胃散 三十銭 (明治三十一年~昭和十八年) うな重(並) 四十銭 (大正四年)
映画 二十銭 (大正七年) コンサイス英和辞典 一円三十銭 (大正六年)
日本橋たいめんけんのカレーライス 七~十銭 (大正六年) 週間朝日 十銭 (大正十一年)
小学校教員初任給 十二~二十円 (大正七年) 銀座ライオンのビール 十八銭 (大正七年)
銀座天国の天丼 十八銭 (大正二年) レコード(SP) 一円五十銭 (大正三年)
板橋の3LDKの家賃 五円二十銭 (大正三年)
だそうです。
一概には言えませんが、大体、当時の一円は現在の一万円位でしょうか。
亀彦会の会費は二口以上ですから十円。
現在の価値で約十万円位のイメージです。
これはそうとう羨ましい。毎月毎月小品を待っていてくれる方がいるわけですから
作家冥利につきます。
しかし、小品といえども木彫でかなり細密な仕事ですから、あんまり儲からない仕事であったはずです。
それでも、アトリエで作業ができるという事は
ものを作る職人にとって安心できる事ですから、とても羨ましことです。
こんなのもあります。
亀彦会とは別に「田島亀彦後援会」の会則です。

中を見ると、顧問、発起人の面々が凄いことに驚きます。
顧問に、 帝室技芸員美術学校教授 高村光雲
帝展審査員 内藤伸
東京美術学校長 正木直彦
帝展審査員美術学校教授 朝倉文夫
日本美術院同人 平櫛田中
発起人に、とにかく凄い肩書きのお偉いさんが名を連ねています。

次項

ほんとうに沢山の方々に才能を育ててもらっていたのがわかります。
僕はといえば、一番の理解者であるべき妻が僕の作品にまったく興味を示さないレベルですので、
羨ましくてボンヤリしてしまいます。
これは、ブロンズ作品の頒布会パンフレットです。

中です。

次項。

やはり、
発起人に伯爵とか子爵、侯爵細川家々職、大臣がずらずら居ます。
僕だったら、確実に舌がつってしゃべれなくなるレベルです。
当時の彫刻家たちのもう一つの大きな収入源は『銅像』の制作でした。
祖父も沢山作っています。

第四回朝倉塾彫塑展 岡村氏の像 と書いてあります。
戦前は、馬にまたがった軍人や、ヒゲをはやした政治家、功労者の銅像制作が彫刻家にあったのですが
戦後はそのような仕事はあまり無くなってしまったようです。
ただ、胸像の依頼だけは、あいかわらずでした。
彫刻を扱う美術商が少ないとすれば、彫刻家は自分で作品を売らねばならない。
その作品とは、人物像、すなわち肖像彫刻です。
日本の彫刻家の仕事の中で、肖像彫刻の制作が大きな部分を占めているのは、概略そういう理由によるのです。

肖像彫刻とは、単に肖像写真の立体化であってはいけません。つまり似顔絵彫刻であってはならないのです。
時間性を極度に奪われた彫刻芸術の難しさでもあるのですが、
その人の「過去と現在と未来」を一つの中に収めなくてはいけないというのが肖像彫刻にはあります。
例えば、舞台の俳優さんが二時間の芝居の中で、
ある一人の人物の何十年の生涯を演じるのを二時間で収めるというのは、
一種の抽象化で、わりと可能なわけです。
しかし、彫刻家が、ある一点の「動かない物体」の胸像の中に
「過去と現在と未来」をそこの中に収めるというのは、
なかなか出来ることではありません。
難しい話ですが、こういう内容をもった作品は、見れば誰でもわかると思います。
切ったら血が吹き出してくるような祖父の作品は、本物の内容をもった肖像彫刻ばかりです。

ため息がでるほど達者です。
こと肖像に関しては、師匠の朝倉文夫より上手いのではないかと思います。
(孫目線の補正が入っているということで勘弁してください。)
大正十四年、美術雑誌『アトリエ』第二巻第十二号に
当時の彫刻家たちの貧乏具合を書いている、はずかしい記事があります。
当時のさまざまな彫刻界の勢力争いについて、
「先づまづ根本的な原因と見なして良いものは、彫刻家が一様に貧乏だからと云へるのである。」
僕も彫刻家なので、もう少しオブラートに包んでほしいと思いました。
正論も、あまりにも的を得ているとギャグの域に入ってしまうという、これは好例です。
続けて、
「実際、名こそ同じ美術家であるが、絵描きと彫刻家では収入に雲泥の差があるのである。」
「絵は好きだけど彫刻は分からないわ。」と、今でもよく聞きます。
絵画と彫刻の需要の差です。
そのため、
「日本画家は帝展に入ればとにかく食へる様になり、審査員にでもならうものなら、
会社重役あたりが足許へも寄られぬ生活ができ、また洋画家は材料も高く貧乏人ではやれぬので、
大抵は食ふに不足のない家の息子が道楽半分にやるので、その他の者もパトロンがついてくれるので、
これまた多くは食ふに心配がいらぬと考えてもよい。が、彫刻家は余程の大家になっても、
作品の値は知れたものである。いったい今日の大家連の中で本当に飯の食へる者は幾人あるだらうか。」
美術雑誌にこのような記事が載るなんて、
風通しが良くて、のどかな、本当にいい時代だなぁと思います。
続いてこの記事は、
『銅像屋』は別にして芸術で食えるのは数えるほどだと断じています。
「それ以外の彫刻家は、医学の解剖模型やセルロイドの玩具の原型、建築の壁屋の手伝いをしたり
木彫家の方では十日もかかって三十円か四十円になる安物を作っては、沢山の暇をつぶして売りに歩き
寺や家の欄間を彫ったり盆を彫ってみたりしてゐる。」
現在とほとんど変わっていない彫刻家の暮らしぶりです。
「かくして食ふや食はずで貯金をして、それで四ヶ月も費やして『帝展制作』をするのである。
あたかも帝展制作をするために生きてゐるので、一年中の他の生活は其の付録みたいなものであると云っても
良いのである。それなら帝展制作をせずにゐたらどうかと云えば、それではまた他から注文が来ず、
飯が食へないと云ふ事になる。」
現在まで百年変化なしの彫刻家。
逆に誇らしくもあり、恥ずかしい、妙な気分になります。
祖父亀彦は、そうではなかったようです。
注文がバンバン来ていて、若くして成城にアトリエを建てたほどです。
僕は、妻にバンバン叩かれ、若くして正常に脈も打てない状態です。
祖父の熊本のアトリエ。銅像の原型と本人、関係者との記念撮影。

今の世の中では、もう銅像を建てることはほとんど無くなってしまいました。
一番、銅像が作られた時期が大正期だったのではないでしょうか。

銅像の仕事が沢山あったと言う事は、もの凄い彫刻の勉強になっていたはずです。
大正期の彫刻家の写実の迫力の秘密はこのような理由もあったのでしょう。
羨ましいです。
粘土原型からの石膏取り風景。右端が祖父。

右の紋付袴が祖父。

左の方は、日大学長 川口先生と書いてあります。
田島亀彦の肖像彫刻には、先の「安達謙蔵像」の他、次のようなものがあります。
阿蘇郡出身で、北里研究所創設者「北里柴三郎像」、女子教育に心血を注いだ尚絅校初代校長「内藤儀十郎像」
民生委員の父「林市蔵像」、元熊本市長・熊本学園学長「高橋守雄像」、熊本日日新聞会長「伊豆富人像」
などがあります。
いずれも等身大以上、倍大の大きさです。
大正期に活躍した彫刻家の多くが、仏像彫刻を出発点としていました。
祖父も仏師の家に生まれ、彫塑や木彫とともに仏像も彫っていました。
祖父亀彦の木彫。不動明王です。
官展でも中心的な活躍をした山崎朝雲、米原雲海、高村光雲、新海竹太郎など、仏師の出です。
本来、礼拝の対象であった仏像が芸術鑑賞の対象になったのは、大正期以降のことです。
今では、博物館や美術館で彫刻作品として仏像が展示されること
信仰目的ではなく仏像鑑賞のために寺院を訪れることはごく一般的です。
田島亀彦作 地蔵菩薩

岡倉天心が飛鳥奈良時代の仏像を、
古代ギリシアやルネサンスの彫刻に匹敵する優れた芸術作品である!と叫んだのを聞いて、
ただの古い仏さんだと思っていた彫刻家はその美に気付いたのです。
西洋コンプレックスで、妙な感じになっていた日本の彫刻が仏像をモチーフにして独自のものに
変わっていきます。
そして、西洋近代の芸術思想に傾倒していた文学者や哲学者たちも、仏像を芸術作品として鑑賞するようになり
ます。
彼らは古寺を訪ねで仏像の芸術性を議論し、鑑賞記を発表しました。
今も読み継がれている和辻哲郎の『古寺巡礼』です。
仏像を美術品として紹介したいんだという興奮した気持ちがひしひしと伝わってくる名著です。
和辻は、「僕が巡礼しようとするのは古美術に対してであって衆世救済の御仏に対してではない。」
と述べています。
仏像が『美術』になったのは、彫刻家のみならず一般に仏像の新たな視点を植え付けました。
今では大人気の木喰仏、円空仏も大正期に再発見されました。
大正十三年、柳宗悦が陶磁器調査に出向いた甲州の旧家で、たまたま木喰仏を見たのが契機となり、
その調査と収集に没頭し、昭和六年、彫刻家の橋本平八は、依頼された自作を納入するために
飛騨高山を訪れた際、偶然円空仏に接しで調査と収集に着手しています。
このようにして形成されてきた彫刻観が、今日の仏像ブームにも引き継がれていると見てよいでしょう。
田島亀彦作 千手観音

しかし、恐ろしい仕事量です。
このような仏像の仕事は、祖父亀彦と弟子一人で仕上げたそうです。
「とにかく、朝から晩まで、ずーっと仕事していた。」
と、父は言っていました。
亀彦作。レリーフになっている珍しいパターンの仏像です。

雲が本当に煙っているようです。
祖父と小さい仏像

それから、なんと、祖父は大理石も彫っていました。
四年間くらい、大理石の作品も作っていたそうです。

大理石の恵比寿。

木彫、粘土、大理石と。
ここまでやられると、ぐうの音もでません。
晩年、祖父は勲章をもらいました。

勲五等。天皇の名前で授与されるんですね。
今回のこの記事を書くにあたり、
写真を見ながら、彫刻家である父(つまり亀彦の息子)に話を色々聞きました。
「おじいちゃん、ホントに凄いねぇ…。」
と、僕は、あらためて驚きながら言いました。
父は、この突き抜けた芸達者の超絶技巧ぶりに、
半ばあきれながら、そして、ちょっぴり悔しさを滲ませながら
「ほんっつとに凄いんだよぉ…。」
僕が、父に対して思っている事と一緒でしたので、とても印象に残っています。
現在七十六歳の父も「息子」なんだなぁと。
写真中央、小さな頭像を手にしているのが、祖父。
お弟子さんが、ぐるりと取り囲んで各々の作品の講評を受けているところです。

祖父の後ろ、詰襟の学生服を着て、熱心に耳を傾けているのが、
父です。
この状態は完全に今の僕です。
一番、好きな写真です。
七十代中ごろの祖父。後ろのキリスト像は、田島亀彦名義ですが、父が仕上げた彫刻だそうです。

父は、この頃まだ二十歳そこそこですが、すでに上手いです。
こういう題材で自分がやると仏像くさくなるから、と、父に任せたそうです。
晩年は足腰が立たなくなり、依頼が来た作品を父が、ほとんど作っていたようです。
「出来た!と思って、親父をおぶってアトリエの作品の前に運ぶんだよ。
じーっと見て、ニヤッと笑って、しょうがネェなぁという顔をして、OKを出すんだよ。」
と、父が言っています。
祖父は、いつも眉間にシワを寄せて、うんうん唸りながら寝ていたそうです。
どうやら、彫刻の事をいつも考えていたらしいのです。
かなり抜きん出たテクニシャンですが、写実の完成を、歯を食いしばりながら修練していたわけです。
その後も父は、何べんも祖父の代作をしては、おんぶして作品を見せました。
そしてある時、
たえず怖い表情をしていた祖父の顔から、
すーっと眉間のシワが消えて、見たことも無いような優しい顔で寝るようになったそうです。
彫刻のことを考えなくても大丈夫だ。せがれがよくなった。
と、祖父は思ったのでしょう。
左端が、最晩年の祖父。右奥の、パカッと馬鹿みたいに口をあけているのが僕。熊本にて。

僕は、この位小さい時にしか、祖父にあった記憶がありません。
ですから、彫刻の話などするわけでもなく、
ただなんとなく、あぁ、おじいちゃんだなぁーと思っていただけでした。
タイムマシーンがあったら飛んで行って、聞きたいことが山ほどあります。
僕が今、木彫に使っている刃物は、すべて祖父の誂えた道具です。
あの、仏像や、小品頒布会の作品、裸婦像、その他、数え切れないほどの作品を彫った道具。
僕の前には父も使った道具です。

現在も使っている祖父の千代鶴是秀の鑿。大正十三年三月十三日に購入と千代鶴の帳面に書いてあるものです。
おじいちゃんが沢山残してくれた彫刻刀を使って
今度は僕が、父の眉間のシワを消さなければなりません。
さっそく僕は、父の寝顔を見てみました。
フンワリとした、見たことも無いような穏やかな顔で寝ています。
酒を飲んでいました。
今日も来てくれてありがとうございました。
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- 2012/08/31(金) 17:38:55|
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