先日、妻とケンカした。
原因は、僕の腹巻に
妻が勝手にマジックで名前を書いたからです。

猛烈に抗議しましたが、妻は大笑いして
まったく取り合ってくれません。
それでも、しつこくしつこく尋問していたら、
「あんたが土佐衛門になった時、便利やろ。」
と、切れ気味におっしゃったので
「…そうかい。」
と、僕は言い、台所に行ってホッと一息つき、牛乳を飲みました。
それから、
おもむろに、晩ごはんの仕度に入ります。
冷蔵庫から、トウフを出して
味噌汁に入れるために包丁で切ろうとした時、
そのトウフの造型美に気づいてしまいました。
もちろん、腹には名前入りの腹巻をしたまま。

トウフは、いはゆる食べ物の一つであるから、あらゆる人が食します。
しかし、僕のような彫刻家がトウフを見て、とりわけ感ずるのはその彫刻美である。
トウフは、彫刻の延長であるもののような気さえしてくる。
僕はこの「トウフの美」を木彫で表してみたくてたまらなくなり
翌日から一心不乱に彫り始めました。
ノコギリで、大まかな木取りをします。

彫刻家のブランクーシが、
四角い石を指差しながら弟子に言ったそうです。
「この、四角い石の強さと美しさに勝てるなら彫れ。勝てないなら彫るな。」
僕も、四角くした木を目の前に戦慄します。
「もう、出来てないか?」
…いや、「トウフの美」にはまだまだ遠い。
余計な事は考えるのをよして、ガンガン彫っていきます。

一般には、彫刻は動かないものと思われていますが、
実は動くのです。
彫刻の持つ魅力の幾分かは、この動きから来ています。
しかし、物体としての彫刻そのものが動くわけはない。
ところが彫刻に面する時、見る人の方が動くから彫刻が動くのです。
一つの彫刻の前に立つと、まずその彫刻の輪郭が目にうつる。
見る者が一歩動くとその輪郭がただちに揺れる。
そうして彫刻の輪郭は、まるで生きているように転変するのです。

唐招提寺の鑑真和上の坐像のような彫刻を見ていると、まるで呼吸しているような微かな動きを感じます。
これは、見る人の呼吸の動きです。
もともと動かない筈の彫刻という物体に、
動きを感ずるところに彫刻の持つ神秘感の物理的根拠があるのです。
僕のトウフも、
モゴモゴ動き始めました。
ここで刀を置き、彩色して完成となりました。↓






僕は、トウフの美しさに肉薄した喜びでいっぱいです。
僕は、早く妻に見て欲しくて自宅に駆け出しました。
手の平にトウフを乗せて、おもいっきり駆け出しました。

腹巻の一件で、険悪な雰囲気になっていたので、
これをきっかけに好転出来ないものか?と考えていました。
たぶん、キャーキャー言って喜んでくれるに違いない。
トウフを手のひらに乗せながら走る僕は、きっとニヤニヤしていたに違いありません。
息を弾ませながら、トウフを妻に見せました。
「ふーん。…で、湯豆腐なの?冷奴なの?」
頭を、金槌で殴られたような衝撃でした。
僕は、トウフの白さや、柔らかさや、形態にばかりとらわれ
肝心なことを表現し忘れていたのです。
彫刻家は「卵」を作っても、それが「ゆで卵」なのか、「生卵」なのか作り分けなければ一流とは言えません。
今度は、トボトボと
トウフを手のひらに乗せ、歩いてアトリエに戻りました。
「トウフなんざぁ、すぐ作れるさ!」などと考えていた僕が甘かった。
本物のトウフがすでに彫刻である以上、それをさらに彫刻に刻む時、
制作の余地がなく、
その彫刻は食品サンプルの意味しか持たないようになる。
再芸術は低くしか成立しない事を立証する一例と見る外はないでしょう。
アトリエに着き
僕は、本格派からカワイイ路線に変更する事にしました。
『トウフ』から『とうふくん』にしてしまおうというのです。





『とうふくん』です。
これでもう、湯豆腐なのか冷奴なのかなんて
いちゃもんをつける隙はありません。



ところで、4月26日から千葉県立美術館で僕の作品が展示されてます。

美術館の周りには、大きな野外彫刻が置かれていています。




美術館の中はこんな感じに展示しています。

色々な作品がたくさん並んでいます。
僕のは、奥の端っこに立っています。

野外には『とうふくん』はありませんのであしからず。


4月26日から5月8日までやっております。
29日はギャラリートークです。
僕も出ますので、新しい腹巻を手土産に来てください。
今日も来てくれてありがとうございます。
- 2011/04/25(月) 19:16:17|
- よもやま噺
-
| トラックバック:0
-
| コメント:8