熊本県の小学校では、道徳の授業で、
僕の祖父である彫刻家の田島亀彦の話をするそうです。
実際の教科書のページはコチラ↓


読みにくいかもしれませんので、全文、書き起こします。
↓
「下駄を彫った子」
田島亀彦が、小学校に入学したのは、今からおよそ百二十年前のことです。
亀彦の父は、お寺などにおまつりする仏様を彫るのが仕事でした。
父は、小学生になった亀彦を早く仕事場になれさせようと思っていました。
「学校から帰ったら、すぐに仕事場に来るんだぞ。」
と、いつも言うのでした。
仕事場に座っていると、遊んでいる友達の声が聞こえてきます。
飛んで行きたいのですが、父は厳しい目をして黙って鑿(のみ)を動かしています。
亀彦は、もじもじしながらそれを見ていました。
やがて、鑿の先からだんだんと形が現れてきます。
鑿の一彫り一彫りでハッと思うように、その形が変わります。
「ふうむ。木を彫る仕事は面白いなぁ。」
と、亀彦は思うようになりました。
小学校の三年生になった亀彦は、ある日、仕事場で小さな木切れを拾って、考えました。
「これで、何か彫ってみたいな。」
「そうだ。おもちゃの下駄にしよう。」
亀彦は仕事場の向かいにある、履物屋の飾り窓にあるような下駄を彫りたいと思ったのです。
亀彦は、鑿を使って、親指ほどの大きさの下駄を五種類も彫りました。
鼻緒は、紙こよりで拵えました。
出来上がると、それを友達に見せたいので、学校に持って行き、机の中に入れておきました。
ところが、この小さなおもちゃは、先生に見つかってしまいました。
職員室に呼ばれた亀彦はすっかりしょげて、
「学校におもちゃを持ってきて、悪うございました。」
と、素直に謝りました。
先生は、
「この下駄は、誰が作ったのか。」
と聞かれました。
「私が作りました。」
と、答えると、
「本当か。田島、どうやってこんなに上手く彫ったのか。お前は天才だぞ。」
先生は、思わず大きな声で言われました。
その時、厳しい目をして、カッカッと鑿を動かしている父の姿が思い浮かびました。
その後、亀彦は、十二歳の時から、彫刻家として勉強を始めました。
田島亀彦は、大きくなって、多くの優れた作品を残しました。
田島亀彦は、明治時代に八代市に生まれた。お父さんの仕事を見ながら大きくなり、
小学校を卒業すると、日本に昔から伝わる絵を勉強するようになった。そして、お父さんのように、
仏様を彫る人になるために京都で勉強した後、東京の美術学校に入学した。
卒業した後は、有名な彫刻家の先生に習い続け、人間と同じ大きさの彫刻を完成させて
審査会に応募した。その作品が特選になり、彫刻家として活躍するようになった。
代表作は今も熊本に数多く残っている。
熊本に帰って来た後も、作品を作りながら多くの人に彫刻を教えた。
と、いうような内容です。
この教科書で授業を担当する先生が、『田島亀彦』で検索したそうです。
そうしたら、なんと孫まで彫刻家で、なにやらトンマな彫刻を量産してワッショイワッショイしているのが分かり、
「ぜひ、この「シド工日記」の記事を授業で取り上げたい!」
とのご要望。
二つ返事でどうぞどうぞ。
↓(コチラの記事を読んでから後半に進んでもらうと、より味わい深いと思います)
田島家の彫刻家三代噺大正期の彫刻界~僕のおじいちゃん~もう角はいらない~祖父の彫刻鑿の事~そして、授業が終わって、
生徒の皆さんから、お手紙をいただきました。

授業を担当した先生、並びに湯前小学校、熊本県教育委員会にも許可をとっておりますので
こちらで皆さんに返事を書きます。
お題は「お孫さんに手紙を書こう」という事ですが、
「亀彦」 に宛てて書いているような物もあります。
天国の「亀彦」を憑依芸で呼び寄せ、僕が代わりにお答えしましょう。

亀彦 「友達と遊ばなかったのは、ズバリお父さんが怖かったからです。」
享央己 「刃物が木に入って行く感触が、とても心地よくて思わず20年も続けてしまったんですよ。」
「丸太から四角い木にノコギリで切ってから作るんだよ。」

亀彦 「お父さんとじいちゃんの仕事を見ていてだんだん好きになっていくのは私と一緒だね。
苦手なことも頑張ればだんだん好きになって上手になるものです。」
享央己 「うっかり彫刻を好きになってしまったのが、たまたま5代続いてしまっただけで、すごくないよ。
君のお父さんとじいちゃんは大工さんかな?彫刻家よりすごい。社会の役に立っているもの。」

享央己 「彫刻家になるのは簡単です。止めなければ良いんだよ。
だから君もなりたいものが見つかったら止めずに続けてごらんなさい。」
亀彦 「うちの孫が変な事を言ってすみません。一番難しかった彫刻は、
全部です。いつもいつも何を作っても難しい。毎回毎回難しいのです。」
享央己 「うちの祖父が禅問答のような事を言ってすみません。」

亀彦 「そうだね。私と似ていますよ。どんなことでも上手になるプロセスは一緒なんだね。」
享央己 「僕も二重跳びは得意でした。55回はすごいね!
練習をコツコツ頑張れる君は木彫りでも何でも出来るようになると思うよ。」

享央己 「妻が君の手紙の字を見て、アンタ(僕の事ね)より綺麗な字だ。内容も完全にアンタが負けている。
と言われました。必ず立派な医者になれるはずです。それが行間からにじみ出ていますよ。」
亀彦 「了見が成熟していて関心しましたよ。習い事止めずに頑張ってね。」

享央己 「面白くて可愛い作品を作る時も、リアルで美しいモノを作る時も、みんな大好きですよ。
君も作ることが好きでしょ?同じだね。」
亀彦 「遊びたい盛りにめんどくさい仏像を彫らされたからね。でも好きになっちゃう事ってあるんです。
君も何でもやってごらんなさい。」

享央己 「最初は何でもぐだぐだだよね。でも君は根性があるから大丈夫。ダンスの先生に頑張ってなってね。」
亀彦 「ぐだぐだになったら、私を思い出してください。」

亀彦 「ホント、その通り。一輪車の名人になっちゃえ。」
享央己 「小学生の時、竹馬にハマってどこへ行くにも竹馬という時期がありました。
今も乗りたいのですが、40を超えたおじさんが一人竹馬に乗って歩いていたら
通報されるので我慢しています。」

亀彦 「下駄作ってみせて。上手くできないかもしれないけどドッチボールと一緒でだんだん出来るようになるよ。」
享央己 「小学生の時、ドッチボールのチャンピオンでした。今もやりたいです。
家の近くの小学校の校庭でドッチボールをしているのを見ると、今でも混ざりたいと思います。
でも40を超えたおじさんですので、通報されると思うので我慢しています。」

亀彦 「もっと強くなりたい。というところにグッと来た。柔道の才能があるんですね。頑張って。」
享央己 「柔道も先生の動きを良く見ることが上達の秘訣です。やったことないけど。」

亀彦 「そうですね。真剣に取り組むとだいたい楽しいんだよ。物事というのは。」
享央己 「おじさんが小学生の時はダンスの授業無かったよ。
たぶん僕だったら、猛烈にふざけて踊って先生に叱られていただろうなぁと思います。
君は真面目に取り組んで好きになって偉いです。」

亀彦 「面白いと思えたら、しめたものですね。続けて頑張れ。」
享央己 「僕が小学生の時はテニスコートに忍び込んで、審判が座る高い椅子に上っては
デュース!デュース!などとワケも分からず叫んでいただけだから、
それを考えると、君はすごいと思います。」

亀彦 「おっ、絵描きになりたいのか。精進あるのみ。
沢山色々なモノを描きなさい。思いだせる限り鉛筆を握っていたと言える位に。」
享央己 「よくもまぁ馬鹿が五代も続いちゃったなぁと自分でも感心します。」

亀彦 「熊本に沢山、私が作った銅像やら仏像があるから見てみてね。」
享央己 「昔と違ってノミの他にも色々な道具を使いますよ。
電動工具や大きな機械も使って彫刻するようになりました。」

亀彦 「数えきれないくらいに作りました。とにかく朝から晩までずーと作り続けた人生でしたから。
人間が何メートルもあるような大きい銅像から小指の先位の物まで何でもやりました。」
享央己 「僕も、数えるのが途中で面倒になるくらい作りました。これからもどんどん作ると思いますよ。
もう少し学年が上がったら刃物を使って何か作ってみるといいですよ。楽しいから。」

亀彦 「うーん。最初から才能があったのかなぁ。ずいぶん昔のことだから忘れてしまったよ。
ただ、彫刻が好きっていう才能はあったと言えるね。だからがんばって上手くなれたんだよ。」
享央己 「と、亀彦おじいちゃんは言っていますが、僕から見れば天才だと思いますね。
プラス、努力でさらに技術を乗っけていった人生だったのではないかと。」

亀彦 「ピアノも彫刻も同じ芸事。稽古してみんな上手になるんだね。」
享央己 「ピアノ弾けるのは憧れます。僕が小学生の時は音楽室に忍び込み近藤正臣の真似!
と叫んで鍵盤の上に乗り、足で猫踏んじゃったを弾くという芸が十八番でしたが
先生に見つかり、よく怒られたものです。」

亀彦 「数え切れないほど彫ったね。何でも作れるよ。菊池武時像はまだ残っています。
息子が作ったのもね。機会があったら見てみてください。」
享央己 「ノミはだいたい20センチメートルです。湯前町のPRも織り込むとはなかなかの文才です。
いつか必ず遊びに行きますね。」

亀彦 「鬼が角を取りたがっているのは、人間になりたくなっちゃったんだよ。
もしかしたら、人間の女の子を好きになっちゃったのかな。」
享央己 「今も毎日作っていますよ。時々このサイトをのぞきにきてね。新しい作品が出来たら載せるので。」

亀彦 「君も遊ばずに柔道の練習をしたからメダルがとれたんでしょう?立派です。続けてください。」
享央己 「田島さんみたいな家族になりたいです。などと僕が小学生の時は言えませんでした。
そんな君を育てた家族みたいな家族になろうと思います。ありがとうございました。」

亀彦 「うん。教えてあげる。けど、私は死んじゃったから行けないので孫に託すわ。」
享央己 「一番嬉しいのは、お客さんが汗水たらして稼いだお金で、僕の作品を買ってくれて
そのお金でお米を買って食べて、眠くなってお布団でぐっすり眠れた時かなぁ。」

亀彦 「君も一回はお父さんの仕事場に行って見学してみれば良いのになぁ。
色々なことが分かって新しい発見があると思いますよ。」
享央己 「好きなことはズバリ彫刻だね。出来ればずーっと作っていたいよ。」
亀彦 「彫刻や体操は難しいから楽しいんだと思う。
難しいから挑戦する。それで出来た時すごい達成感があるからハマっていくのでしょうね。」
享央己 「これからも彫刻家が代々受け継がれて行く可能性が、ちょっと出てきました。
つい最近、僕にも赤ちゃんが生まれたからです。
女の子ですから心配ですが、この子も彫刻家になるのかなぁとボンヤリ思います。」

僕の赤ちゃんを彫りました。
生まれて来てすぐ、対面した時、このようなお包み姿でした。
僕はすぐアトリエに行き、赤ちゃんを想い浮かべながら彫りました。

お包み姿のなんと可愛らしいことよ。
分娩室でこう思いました。
なぜ、このお医者さんは、この何とも美しい我が子をもっと見ないのだろうか。
なぜ、この助産師さんは、この何ともまぁ可愛らしい我が子の写真をとらないんだろうか。
なぜだ。
なぜなんだ。
もはや、
僕は正気ではありません。
毎日、
西松屋(ベビー用品) に真っ昼間から行って、涙ぐみながら買い物しています。
西松屋 泣きながら買い物 おじさん
で、検索して見てください。
トップに僕が出てくるはずです。

出来あがって、妻に見せたら珍しく褒めてくれました。
「かわいい!」 と。
いつもは、僕の作品なんぞ絶対に褒める人じゃないのに。
もはや正気ではありません。

裏には、この子の名前と生年月日。
今は、家のリビングの壁に掛けてありますが、

この子が結婚したら、プレゼントしようと思います。
この手押し車は、
大学を卒業して、
すぐの頃に作りました。

僕にも、いつか赤ちゃんが生まれたら、
これで遊ばせるんだと思いながら、丁寧に丁寧に彫りました。
15年前の事です。
やっと出番が来ました。
湯前小学校三年生の皆さん、お手紙を本当にありがとうございました。
とっても嬉しかったですし、読んでいてとっても楽しかったです。
僕の父(亀彦の倅)にも読ませましたら喜んでいました。
父の最新作です。

木彫の盆栽です。一度病気で参りかけましたが、復活してこのような作品を作っています。
ようやく、僕の子(6代目?)を見せる事が出来ました。
亀彦も、父が生まれた時、とち狂ったはずです。
僕が生まれた時、
父は、この子は本当に美しい顔立ちをしているからオカマになってしまっては困る。努めて男っぽく育てよう
と、思ってそうしたそうです。
正気の沙汰ではありません。
そして、君たちのお父さん、お母さんも、
今の僕と同じように、
「ここの看護士さん達はなぜ、この美しい子を見に来ないんだろうか??完全におかしいよ!!」
などと、完全におかしい事を言っていたのです。
だから、お父さん、お母さんを心配させず、
まっすぐ元気に頑張ってください。
以上で、お返事終わりますが
くれぐれも、彫刻家にはならないように。
それこそ正気の沙汰ではありませんから。

今日も来てくれてありがとうございました。
「下駄を彫った子」 田島亀彦
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- 2015/02/08(日) 11:40:22|
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